なぜ年数で負担額が変わるのか
退去のときに渡される精算書を見て、同じ「壁紙の張替え」なのに、人によって金額がまるで違うと聞いて戸惑う方は少なくありません。この差の多くは、工事の値段そのものではなく、その費用のうちどこまでを借りていた側が負うのか、という配分の考え方から生まれています。
国土交通省が公表している「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン(再改訂版)」は、この配分について一つの考え方を示しています。そこでは、賃借人に原状回復義務が生じる場合であっても、修繕等の費用の全額を賃借人が当然に負担することにはならない、と説明されています。理由はこうです。傷んだ箇所には、時間の経過による劣化(経年変化)や普通に住んでいれば生じる損耗(通常損耗)が必ず前提として含まれており、その分は賃料として支払われてきたはずのものです。それを明け渡し時にもう一度負担させると、同じものを賃貸借期間中と退去時とで二重に評価することになってしまう、というのがガイドラインの説明です。
ガイドラインはさらに、経過年数1年で毀損させた場合と経過年数10年で毀損させた場合を比べると、後者のほうが経年変化・通常損耗が大きいはずで、それでも修繕費の負担が同じでは公平を欠く、と述べています。だからこそ、年数が多いほど負担割合を減少させるのが適当だ、という整理になっています。
ガイドラインは法律ではないという前提
ここで、最初に押さえておきたい前提があります。ガイドラインの冒頭には、本ガイドラインは原状回復の費用負担のあり方について、トラブルの未然防止の観点から現時点において妥当と考えられる一般的な基準をとりまとめたものであり、その使用を強制するものではない、と書かれています。そして、原状回復の内容や方法については、最終的には契約内容、物件の使用の状況等によって、個別に判断・決定されるべきものだ、とも明記されています。第1章の書き出しにも、ガイドラインはあくまで負担割合等についての一般的な基準を示したものであり、法的な拘束力を持つものでもない、と書かれています。
つまり、「入居年数が経てば法律によって自動的に金額が下がる」という仕組みがあるわけではありません。経過年数の考え方は、話し合いや裁判の場で広く参照される物差しではあっても、それ自体が請求額を機械的に決めるものではないのです。実際にいくら負担するのかは、契約書にどう書かれているか、有効と認められる特約があるか、その部屋がどう使われていたかによって変わります。
法律の側で定められているのは、民法第621条です。賃借人は、賃借物を受け取った後にこれに生じた損傷(通常の使用及び収益によって生じた賃借物の損耗並びに賃借物の経年変化を除く)がある場合において、賃貸借が終了したときは、その損傷を原状に復する義務を負う、とされ、その損傷が賃借人の責めに帰することができない事由によるものであるときはこの限りでない、と続きます。通常損耗と経年変化が除かれている点が出発点で、そこから先の金額の配分をどう考えるかを補っているのがガイドライン、という関係です。
耐用年数はどこから来ている数字か
ガイドラインが経過年数による減価割合を考えるとき、下敷きにしているのは税の世界の考え方です。本文には、従前より法人税法及び法人税法施行令における減価償却資産の考え方を採用するとともに、減価償却資産の耐用年数等に関する省令(昭和40年3月31日大蔵省令第15号)における経過年数による減価割合を参考にしてきた、と書かれています。
かつては償却年数の経過後に残存価値が10%残るものとして負担を決めていましたが、平成19年の税制改正によって残存価額が廃止され、耐用年数経過時に残存簿価1円まで償却できるようになりました。これを踏まえ、ガイドラインでは例えばカーペットの場合、償却年数は6年で残存価値1円となるような直線(または曲線)を描いて、経過年数により賃借人の負担を決定する、という説明に改められています。壁のクロスについても、6年で残存価値1円となるような負担割合を算定する、と別表に記されています。
設備機器についても、別表に主な設備の耐用年数が挙げられています。そこでは流し台が5年、冷房用・暖房用機器(エアコン、ルームクーラー、ストーブ等)や電気冷蔵庫・ガスレンジ、インターホンが6年、金属製以外の家具(書棚、たんす、戸棚、茶ダンス)が8年、便器・洗面台等の給排水・衛生設備や主として金属製の器具・備品が15年として整理され、ユニットバス、浴槽、下駄箱のように建物に固着して一体をなすものは当該建物の耐用年数が適用されるとされています。これらはガイドラインの別表に載っている数字であり、根拠をたどれば右の省令の考え方につながっている、という関係で理解しておくと混乱が少なくなります。
経過年数を考慮しない部位があります
ここが誤解されやすいところですが、すべての費目に年数による減額が働くわけではありません。ガイドラインには「経過年数(入居年数)を考慮しないもの」という項目があり、建物本体と同様に長期間の使用に耐えられる部位であって、部分補修が可能な部位、例えばフローリング等の部分補修については、経過年数を考慮することにはなじまない、と説明されています。部分的に直しても将来的には全体を張り替えるのが一般的で、部分補修によってフローリング全体の価値が高まったとは評価できない(つぎはぎの状態になる)ため、というのが理由です。したがってこうした部位は、経過年数を考慮せず、部分補修費用について毀損等を発生させた賃借人の負担とするのが妥当とされています。
一方で、フローリング全体にわたっての毀損により全体を張り替えた場合は、経過年数を考慮するのが適当だとされ、別表ではその場合に建物の耐用年数で残存価値1円となるような負担割合を算定する、と補足されています。同じフローリングでも、部分補修か全体の張替えかで扱いが分かれるわけです。
また、襖紙や障子紙、畳表といったものは、消耗品としての性格が強く、毀損の軽重にかかわらず価値の減少が大きいため、減価償却資産の考え方を取り入れることにはなじまないとして、経過年数を考慮せず、張替え等の費用について毀損等を発生させた賃借人の負担とするのが妥当と考えられる、と書かれています。畳は原則1枚単位、襖は1枚単位、柱は1本単位という負担単位もあわせて示されています。鍵を紛失した場合も経過年数は考慮せず、交換費用相当分を借主負担とする、とされています。
どこまでの範囲を直す費用なのか
金額を左右するもう一つの軸が、工事の範囲、つまり施工単位です。ガイドラインは、原状回復は毀損部分の復旧であることから、可能な限り毀損部分に限定し、毀損部分の補修工事が可能な最低限度を施工単位とすることを基本とする、と述べています。そのうえで、賃借人に原状回復義務がある場合の費用負担についても、補修工事が最低限可能な施工単位に基づく補修費用相当分が負担対象範囲の基本になる、と続きます。
難しいのは、毀損した場所と、実際に工事をする場所にずれがあるときです。壁のクロスは、毀損箇所が一部であっても、他の面との色あわせや模様あわせをしないと商品価値を維持できない場合があるため、部屋全体を張り替えることが多いのが実情だと、ガイドライン自身が認めています。しかし、部屋全体のクロスの色や模様を一致させることには賃貸物件としての商品価値の維持・増大という側面が大きく、いわゆるグレードアップに相当する部分が含まれるため、部屋全体の張替えを賃借人の義務とすると原状回復以上の利益を賃貸人が得ることになり妥当ではない、と整理されています。
他方で、毀損部分だけを張り替えると、その部分だけが明確に判別できる状態になり、建物価値の減少を復旧できたとはいえないとも考えられます。そこでガイドラインは、クロス張替えの場合、毀損箇所を含む一面分の張替費用を、毀損等を発生させた賃借人の負担とすることが妥当と考えられる、という結論を示しています。別表でも、クロスの負担単位について㎡単位が望ましいが、賃借人が毀損した箇所を含む一面分までは張替え費用を賃借人負担としてもやむを得ないとする、と書かれています。工事の見積りが最低限の施工単位で組まれているかどうかは、金額を読み解くうえで見落とせない視点です。
残存価値1円になっても負担が消えるわけではない
耐用年数を過ぎれば何をしても請求されない、という受け取り方も、ガイドラインの本文とは食い違います。本文には、経過年数を超えた設備等を含む賃借物件であっても、賃借人は善良な管理者として注意を払って使用する義務を負っていることは言うまでもなく、そのため、経過年数を超えた設備等であっても、修繕等の工事に伴う負担が必要となることがあり得ることを賃借人は留意する必要がある、と明記されています。
具体的な説明もあります。経過年数を超えた設備等であっても、継続して賃貸住宅の設備等として使用可能な場合があり、このような場合に賃借人が故意・過失により設備等を破損し、使用不能にしてしまったときには、賃貸住宅の設備等として本来機能していた状態まで戻す費用、例えば賃借人がクロスに故意に行った落書きを消すための費用(工事費や人件費等)などについては、賃借人の負担となることがある、という書き方です。
つまり、経過年数の考え方が働くのは価値が減った分の評価であって、使い方の責任そのものが消えるわけではありません。年数が長いことを理由に減額を求めるときも、その毀損が経年変化・通常損耗の範囲なのか、故意・過失によるものなのかという区別は、依然として議論の中心に残ります。
入居年数への置き換えと出発点の決め方
実務では、その設備がいつ取り替えられたのかという本当の経過年数が分からないことがよくあります。ガイドラインもこの点を認めていて、新築物件の賃貸借契約ではない場合、設備等によって補修・交換の実施時期はまちまちであり、その履歴を賃貸人や管理業者等が完全に把握しているケースは少なく、入居時に経過年数を示されても賃借人としては確認できない、と述べています。
そこで採られているのが、経過年数のグラフを入居年数で代替する方式です。入居時点の設備等の状況は必ずしも価値100%のものばかりではないので、その状況に合わせてグラフを下方にシフトさせて使用する、とされています。出発点をどこに置くかは、契約当事者が確認のうえ、あらかじめ協議して決定することが適当だとされ、入居直前に設備等の交換を行った場合はグラフは価値100%が出発点になるが、そうでない場合には、当該賃貸住宅の建築後経過年数や個々の損耗等を勘案して1円を下限に適宜グラフを決定することとなる、と書かれています。
この「出発点を入居時に決めておく」という発想は、退去時の話し合いを大きく楽にします。ガイドラインが入退去時の物件状況の確認リストや、契約書に添付する原状回復の条件に関する様式を用意しているのも、同じ狙いによるものです。入居中の方であれば、今のうちに手元の契約書に原状回復の条件が添付されているか、設備の交換時期が記録されているかを見ておく価値があります。
見積書と契約書のどこを照らし合わせるか
請求額に疑問があるとき、最初に見るのは金額の大小ではなく、その金額がどういう組み立てでできているかです。ガイドラインは費用算定の手順を図で示しており、退去時の立会いで物件の状況を確認したうえで、修繕する範囲(箇所、面積)と修繕する方法(施工方法)、賃借人の負担割合(負担単位等)を検討し、続いて経過年数を考慮するものと考慮しないものを確定し、そのうえで見積費用を確認し合意する、という流れになっています。精算はその後だ、という順番です。
契約書の側では、特約の扱いを確かめることになります。ガイドラインは、賃借人に特別の負担を課す特約の要件として、特約の必要性があり、かつ暴利的でないなどの客観的、合理的理由が存在すること、賃借人が特約によって通常の原状回復義務を超えた修繕等の義務を負うことについて認識していること、賃借人が特約による義務負担の意思表示をしていること、の三つを挙げています。あわせて、通常損耗及び経年変化についての原状回復義務を賃借人に負わせるには、その範囲が契約書の条項自体に具体的に明記されているか、口頭で説明され明確に合意されていることが必要である、という最高裁判例の判断も紹介されています。
なお、ガイドラインの様式には原状回復工事施工目安単価の欄がありますが、この単価はあくまでも目安であり、入居時における賃借人・賃貸人双方で負担の概算額を認識するためのものであって、退去時においては資材の価格や在庫状況の変動、毀損の程度や原状回復施工方法等を考慮して変更となる場合がある、と注記されています。単価表の数字が、そのまま確定額として扱われるものではない点は理解しておきたいところです。
相談の前に確かめるチェックリスト
- 精算書の各項目が、部屋全体ではなく毀損箇所を含む最低限の施工単位になっているか確かめる。
- クロスやカーペットなど経過年数を考慮する項目に、入居年数が反映されているか確認する。
- 襖紙・畳表・鍵など、経過年数を考慮しないとされる項目が混ざっていないか切り分ける。
- 契約書に原状回復の条件や特約が添付され、負担範囲が具体的に明記されているか読み返す。
- 入居時の状況を示す写真やチェックリストが手元に残っていないか探しておく。
- 納得できないときは、消費生活センターなど公的な相談窓口に経緯を相談する。



