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まず民法の条文を確かめる

退去時の精算で最初に立ち返る場所は、広告でも慣習でもなく法律の条文です。民法第621条は「賃借人は、賃借物を受け取った後にこれに生じた損傷(通常の使用及び収益によって生じた賃借物の損耗並びに賃借物の経年変化を除く。以下この条において同じ。)がある場合において、賃貸借が終了したときは、その損傷を原状に復する義務を負う」と定め、さらに「ただし、その損傷が賃借人の責めに帰することができない事由によるものであるときは、この限りでない」と続けています。

この条文の形をよく見ると、原状回復義務の対象そのものから、通常の使用収益によって生じた損耗と経年変化が括弧書きで除かれています。つまり「いったん全部借主の義務にして、あとから通常損耗分を差し引く」という構造ではありません。通常損耗と経年変化は、はじめから義務の範囲の外に置かれています。加えて、借主の責めに帰することができない事由による損傷も、ただし書きによって除かれます。

この明文は、2017年5月に成立した「民法の一部を改正する法律」によって置かれたもので、法務省は同法が2020年4月1日から施行されると案内しています。法務省が公表している賃貸借契約についてのパンフレットも、原状回復義務の範囲に通常損耗や経年変化が含まれないことは従来も一般にそう解されていたものの、改正前の民法の文言上は明確ではなかったと説明しています。

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ガイドラインは法律ではなく指針である

退去精算の話題では国土交通省の「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン(再改訂版)」がよく引かれます。ただし、この文書の位置づけを取り違えると、話がかみ合わなくなります。ガイドライン本文は冒頭で、民間賃貸住宅の賃貸借契約については契約自由の原則により、民法や借地借家法等の強行法規に抵触しない限り有効であって、その内容を行政が規制することは適当ではない、と明言しています。

そのうえで本ガイドラインは、裁判例や取引等の実務を考慮し、原状回復の費用負担のあり方について、トラブルの未然防止の観点から現時点において妥当と考えられる一般的な基準をとりまとめたものだ、と自らを説明しています。第1章でも、ガイドラインはあくまで負担割合等についての一般的な基準を示したものであり、法的拘束力を持つものでもない、と繰り返されています。

さらに本文は、その使用を強制するものではなく、原状回復の内容・方法については、最終的には契約内容、物件の使用の状況等によって、個別に判断、決定されるべきものであると考えられる、としています。ですから「ガイドラインにこう書いてあるから必ずこうなる」という読み方はできません。ガイドラインは、貸主と借主が話し合うときの共通のものさしとして参照されるものだと受け止めるのが正確です。

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ガイドラインが示す三つの区分

ガイドラインは建物の損耗等を建物価値の減少と位置づけ、理解しやすいように三つに区分しています。①―Aが建物・設備等の自然的な劣化・損耗等(経年変化)、①―Bが賃借人の通常の使用により生ずる損耗等(通常損耗)、②が賃借人の故意・過失、善管注意義務違反、その他通常の使用を超えるような使用による損耗等です。善管注意義務とは、善良な管理者として払うべき注意をもって借りたものを扱う義務のことで、借主が負う基本的な義務です。

このうち②を念頭に置いて、ガイドラインは原状回復を「賃借人の居住、使用により発生した建物価値の減少のうち、賃借人の故意・過失、善管注意義務違反、その他通常の使用を超えるような使用による損耗・毀損を復旧すること」と定義しています。定義の文言が長いのは、そこに条件が幾重にも重なっているからで、「汚したら全部借主負担」という要約はこの定義を壊してしまいます。

①―Aと①―Bの修繕、たとえば次の入居者を確保する目的で行う設備の交換や化粧直しなどのリフォームについては、賃貸人が負担すべきものと考えられる、とガイドラインは整理しています。これらは賃貸借契約の性質上、契約期間中の賃料でカバーされてきたはずのものだ、というのがその理由です。なお、震災等の不可抗力による損耗や、上階の居住者など当該賃借人と無関係な第三者がもたらした損耗等を賃借人が負担すべきでないことは当然である、とも書かれています。

さらにガイドラインは、Aに該当するもののうち建物価値を増大させる要素が含まれているものをA(+G)として別に区分しています。Gはグレードアップ、すなわち退去時に古くなった設備等を最新のものに取り替える等の建物価値を増大させる修繕を指します。別表1では、畳の裏返し・表替え、フローリングのワックスがけ、専門業者による全体のハウスクリーニング、網戸の張替えなどがA(+G)に挙げられており、いずれも次の入居者を確保するための化粧直し・維持管理の問題であるとして、賃貸人が負担することが妥当と整理されています。ただし全体のハウスクリーニングについては、賃借人が通常の清掃(ゴミの撤去、拭き掃除、水回り・換気扇・レンジ回りの油汚れの除去等)を実施している場合、という条件が付いています。

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別表1の具体例で境目を見る

抽象的な定義だけでは判断が付かないため、ガイドラインは別表1「損耗・毀損の事例区分(部位別)一覧表」で、部位ごとに具体例と考え方を示しています。事例区分は、賃借人が通常の住まい方、使い方をしていても発生すると考えられるものをA、賃借人の住まい方、使い方次第で発生したりしなかったりすると考えられるもの(明らかに通常の使用等による結果とはいえないもの)をB、基本的にはAだがその後の手入れ等賃借人の管理が悪く損耗等が発生または拡大したと考えられるものをA(+B)としています。

たとえば床では、家具の設置による床やカーペットのへこみ・設置跡、日照など自然現象による畳の変色やフローリングの色落ちがAに挙げられています。壁・天井では、テレビや冷蔵庫等の後部壁面の黒ずみ、いわゆる電気ヤケがAです。壁等の画鋲・ピン等の穴も、下地ボードの張替えが不要な程度のものであれば、ポスターやカレンダー等の掲示は通常の生活において行われる範疇のものだとして、Aに区分されています。一方Bには、引越作業でできたひっかきキズ、タバコ等のヤニ・臭い、飼育ペットによる柱等のキズ・臭い、重量物をかけるためにあけた下地ボードの張替えが必要な程度のくぎ穴・ネジ穴などが挙げられています。

A(+B)という中間の区分があることも大切です。カーペットに飲み物等をこぼしたことによるシミ・カビは、こぼすこと自体は通常の生活の範囲内でも、その後の手入れを怠って生じたシミやカビの除去は賃借人の負担と考えるのが妥当、という整理になっています。台所の油汚れも、使用期間中に清掃・手入れを怠った結果汚損が生じた場合は善管注意義務違反と判断されることが多いとして、BではなくA(+B)に置かれています。結露が発生しているのに賃貸人に通知もせず、拭き取るなどの手入れを怠って壁等を腐食させた場合も、同じくA(+B)です。

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特約があれば何でも有効になるわけではない

契約書に「退去時にハウスクリーニング費用を負担する」「壁紙の張替費用は借主負担とする」といった特約が入っていることがあります。ガイドラインは、強行法規に反しないものであれば特約を設けることは契約自由の原則から認められるとしつつ、経年変化や通常損耗に対する修繕義務等を賃借人に負担させる特約は、賃借人に法律上、社会通念上の義務とは別個の新たな義務を課すことになるため、次の要件を満たしていなければ効力を争われることに十分留意すべきである、と述べています。

その【賃借人に特別の負担を課す特約の要件】として本文が挙げているのは、①特約の必要性があり、かつ、暴利的でないなどの客観的、合理的理由が存在すること、②賃借人が特約によって通常の原状回復義務を超えた修繕等の義務を負うことについて認識していること、③賃借人が特約による義務負担の意思表示をしていること、の三つです。

ガイドラインはあわせて、消費者契約法第10条が、民法・商法等による場合に比し消費者の権利を制限し、又は消費者の義務を加重する消費者契約の条項であって、消費者の利益を一方的に害するものは無効とすると規定していることにも触れています。つまり、特約が契約書に書かれている事実だけで負担が確定するわけではなく、その中身と説明のされ方が問われます。将来負担することになる費用の単価等を明示しておくことが紛争防止のうえで欠かせない、とも書かれています。

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毀損した部分と工事する範囲は同じではない

借主に原状回復義務がある場合でも、負担する範囲がどこまで広がるかは別の問題です。ガイドラインは、原状回復は毀損部分の復旧であることから、可能な限り毀損部分に限定し、毀損部分の補修工事が可能な最低限度を施工単位とすることを基本とする、としています。部屋全体を一律に借主負担とするのが当然、という前提は置かれていません。

問題になりやすいのは、毀損部分と補修工事の施工箇所にギャップがある場合です。壁のクロスでは、毀損箇所が一部でも他の面との色や模様あわせをしないと商品価値を維持できないことがあるため、部屋全体の張替えを行うことが多くあります。この点についてガイドラインは、部屋全体のクロスの色・模様を一致させることは賃貸物件としての商品価値の維持・増大という側面が大きく、そこにはグレードアップに相当する部分が含まれるため、部屋全体の張替えを賃借人の義務とするのは妥当ではないとしています。

そのうえで、毀損箇所を含む一面分の張替費用を、毀損等を発生させた賃借人の負担とすることが妥当と考えられる、という整理が示されています。精算書に工事範囲が書かれていないときは、どの単位で費用が積まれているのかを尋ねることが、話し合いの出発点になります。

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敷金の返還について民法が定めていること

退去精算は、多くの場合、預けた敷金から差し引く形で行われます。民法第622条の2第1項は、賃貸人は敷金を受け取っている場合において、賃貸借が終了し、かつ、賃貸物の返還を受けたとき、または賃借人が適法に賃借権を譲り渡したときは、賃借人に対し、その受け取った敷金の額から賃貸借に基づいて生じた賃借人の賃貸人に対する金銭の給付を目的とする債務の額を控除した残額を返還しなければならない、と定めています。

同条第2項は、賃借人が金銭の給付を目的とする債務を履行しないときは賃貸人が敷金をその債務の弁済に充てることができるとしたうえで、賃借人の側から敷金を債務の弁済に充てることを請求することはできない、としています。法務省のパンフレットは、改正前の民法には敷金の定義や敷金返還請求権の発生時期についての規定がなかったと説明しており、改正後は敷金を「いかなる名目によるかを問わず」賃料債務等を担保する目的で交付する金銭と定義したと述べています。名目が保証金であっても、その実質で判断されるということです。

つまり、敷金から差し引けるのは賃貸借に基づいて生じた借主の債務です。原状回復費用がそこに含まれるかどうかは、前述の民法第621条と契約内容に戻って検討することになります。

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精算書を受け取ったら何を見るか

請求額そのものに驚いて全体を否定したり、逆に諦めて全額を支払ったりする前に、内訳を項目ごとに分けて見ていくのが落ち着いた進め方です。ガイドラインが入退去時の物件状況及び原状回復確認リストや別表4の精算明細等に関する様式を例示しているのも、部位ごとに事実を確認するためです。入居時の写真や立会いの記録が残っていれば、その損耗が入居前からあったのか、自分の使い方で生じたのかを具体的に示せます。

ガイドラインは、こうしたチェックリストなどは後日トラブルとなり訴訟等に発展した場合でも証拠資料になりうるため、迅速な解決のためにも有効である、としています。記録がない場合でも、どの部位の何がどの区分に当たると貸主側が考えているのかを尋ね、契約書の該当条項と突き合わせるところから始められます。

なお、負担すべき損耗であっても、金額が全額そのまま借主負担になるとは限りません。ガイドラインは建物や設備等の経過年数を考慮し、年数が多いほど負担割合を減少させる考え方を採用しています。ただしこれには例外があり、フローリングの部分補修のように部分補修が可能で長期間の使用に耐えられる部位や、消耗品としての性格が強い襖紙・障子紙・畳表については、経過年数を考慮せず、補修や張替え等の費用を損耗等を発生させた賃借人の負担とするのが妥当とされています。その算定の考え方は別の記事で扱います。

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話し合いがつかないときの相談先

貸主や管理会社との話し合いで折り合えないとき、個人で抱え込む必要はありません。国民生活センターは「全国の消費生活センター等」というページで相談窓口を案内しており、消費者ホットラインは「誰もがアクセスしやすい相談窓口」として開設されたもので、局番なしの188番に電話すると身近な消費生活相談窓口につながると説明しています。土日祝日に都道府県等の消費生活センター等が開所していない場合は国民生活センターにつながる旨(相談時間10時から16時、一部地域や年末年始等を除く)も記載されています。

また同ページでは、188に電話した際に都道府県や政令市の消費生活センター等の電話が話中でつながらない場合に、国民生活センターのバックアップ相談の電話番号がアナウンスされると案内されています。同ページに掲載されている番号は03-3446-0999、受付は平日10時から16時です。なお同ページには、この窓口の電話番号と名称が変更された旨の注記があるため、かけ直す前に発行元のページで番号を見直すのが確実です。自治体によっては住宅に関する相談窓口を別に設けていることもあるため、お住まいの市区町村の案内も確認してみてください。

ガイドライン第2章は、トラブルの迅速な解決にかかる制度として少額訴訟手続や裁判外紛争処理制度(調停・仲裁)、行政機関への相談を扱っています。いきなり訴訟を考えるのではなく、まず相談窓口で事実関係を整理してもらうところから始めるほうが、負担は小さくてすみます。

相談の前に確かめるチェックリスト

  • 契約書に原状回復や修繕費の負担に関する特約が入っていないか、条項を読み返す
  • 特約がある場合、その内容を契約時に説明され、自分が負担を了解したと言える状態か振り返る
  • 請求されている項目が、経年変化・通常損耗か、自分の使い方による損傷かを部位ごとに分ける
  • 入居時の写真、立会い記録、チェックリストなど、入居前の状態を示す資料が手元にあるか探す
  • 精算書に工事の範囲と単位(一面分か部屋全体か)が書かれているかを確認し、なければ尋ねる
  • 折り合えないときは消費者ホットライン188や自治体の窓口に、資料を持って相談する
制度の一般的な考え方をまとめたものです。実際の取扱いは契約の内容や個別の事情によって変わります。判断が必要な場面では、不動産会社や専門家、行政の相談窓口にご確認ください。